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文化財~大本神社(イトザクラ及びエドヒガン)~

ページID:0002718 更新日:2012年1月1日更新 印刷ページ表示

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大本神社

 大本神社の境内約3ヘクタールに群生しているイトザクラとエドヒガン(ウバヒガン)は、昭和24年(1949)9月17日県指定天然記念物となりました。エドヒガンは、老木、若木を含めて10数本あり、その間にエドヒガンの変種であるイトザクラ(シダレザクラ)が多数混生しています。この種の桜は、東北地方に多いといわれるが伊予のしかも南予の地に群生していることは珍しく藩政時代から藩主や領民の花見の場として桜の名所となっています。
 永徳2年(1382)竹林院右衛門佐公明、山の麓に宮所を遷し造立して古例の通り社領30貫文の地を寄附し奉る。天正16年(1588)秀吉天下統一の砌り社領没収される。延宝7年(1679)伊達宗純吉田藩立願叶うの日、尾田某に命じて本社の簀屋を建立され、3代村豊公の時、本社建立される。享保6年(1721)正月24日遷宮し、宝暦9年(1759)舞殿建立す。安永2年(1773)末社山王宮建立、寛永6年(1629)神前の石階を内深田邑若者共これを建立す。第6代村芳公は、氏子人の信仰厚きを聞き奇特の事と思召して神前に御自筆書の額を給う。寛政8年(1796)7月7日額師に彫刻させ同年霜月神前に掛奉り氏子中藩主の武運長久万歳楽を唱え合えり(現在拝殿中央捧げ奉る)。
 この神苑に桜が植樹されたのはいつの頃か明らかではないが、一説によると延宝2年(1674)初代宗純公大病に際して領内の医師に治療を命ぜられた時、吉藤郷深田村に、文庵と称する村医師が、大本大明神に七日七夜の祈願をし神の御告げによりその霊薬を献じた所日増に御平癒されその功によって御殿医に取り立てられた。或る時武者修行の剣客来たり御前試合をなし御指南役は打敗けて剣客は勝ち誇って広言を放ったので、文庵は公の御許しを得て立合って剣客の木剣を叩き落し大いに面目を施し、禄高加増剣道指南役となり次第に昇進して家老筆頭となり山田伸左衛門と称した。山田伸左衛門は、藩主宗純公に進言し大本大明神の御神殿を新築し、境内を広め池を掘り庭を築き数多くの桜樹を植込み宗純公御手植の伊達桜もある。歴代の藩主は年々この地へ遠乗りをし観桜の宴を催された。

 6代藩主村芳公奥方満喜子夫人は奉納歌一首「老いぬれど、変わらぬものは年毎に、花見て遊ぶ心なりけり」と、懐剣一振りを与えられた。懐剣の銘は、備前国主長船住源兵衛尉祐定なり。大本神社の庭園は境内に出来た武家庭園として伊予名園の一つになっている。霊池に落ちる滝の高さ4.5メートル幅1.8メートルその頭に烏帽子石、滝の左右に「二王石」「唐豹石」滝の上に「垂釣石」と「沓脱石」を置き、更に近隣の村人の寄進七石が総勢約千人によって境内に運び入れ見物人の老若男女益々信仰を熱くしたという。(一)安護石、(二)上座石、(三)虎渓石、(四)豹陰石、(五)臥牛石、(六)鴛鴦石(エンオウセキ)オシドリ石(2ヶ)であり、寛政八丙辰年季冬日と記録され、不思議なことに道の遠近にもかかわらず参加した大勢の群衆一人も怪我するものもなかった。又この庭園は武家庭園であり、広い境内は馬庭ともいわれ馬術を催したり、藩主が家来や囃方以下総出の大掛かりな花見行事も行われたと思われる。(「大本社頭建立伝記」より)(県指定記念物)

所在地

内深田 大本神社

指定年月日

昭和24年9月17日