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歴史

ページID:0000962 更新日:2021年6月7日更新 印刷ページ表示

歴史

 鬼北町の歴史は、旧石器・縄文時代にさかのぼります。ナイフ形石器や有舌尖頭器が、愛治地区清水倉内遺跡や泉地区岩谷遺跡で確認されます。清水倉内では、多数の石鏃や早期の無文土器片、岩谷では縄文早前期のトロトロ石器などもあります。 

 岩谷遺跡(愛媛県指定史跡)では、縄文後期(約4000~3000年前)の土器・石器とともに円形配石遺構が確認され、祭祀遺構と考えられています。また、打製石斧が多く伴出していることから畑作農耕の可能性が指摘されています。このころ四万十川流域では河岸段丘上に多くの遺跡が確認されており、狩猟・採集に加えて農耕が開始され、定住化が進んだと考えられます。しかし、続く弥生時代は稲作農耕の時代といわれますが、当町での遺跡の出現は後期後半まで待たねばならず、終末に至って興野々地区に突如として環濠集落が形成されます。興野々寺山遺跡では、極小サイズの竪穴住居数棟と外周を区画するV字溝が確認されました。稲作を直接示す道具はありませんでしたが、少量の炭化米が確認され、土器のセットにも変化が認められるため、稲作が開始されたことを示す遺跡と考えられます。しかし、それも一時期のみで、古墳時代には続いていません。古墳時代には当地域を含む西予市以南には古墳の分布も確認されず、山間の地にあって、稲作に不向きで過酷な土地柄であり、現在のように平野部に田園地帯の広がる景観が形成されるまでには、のちの開発を待たねばなりませんでした。

 古代律令期には、宇和郡が成立し、西予市宇和町がその中心地でした。当町は三間郷に属し、日本書紀や続日本紀に鉱山開発に関する記録や田園開発に係る伝承があります。日吉地区父野川は古くから水銀朱の採掘場が知られ、伊予国から朝廷に水銀朱が献上された記録から、その候補地として有力視されています(『日吉村史』)。また、柏田地区の笛吹池はこのころ築造されたものとされ、柏田が開かれたと伝えられています(『好藤村史』)。このころから山林や平野部の開発が進んだものと理解されます。

 平安時代から鎌倉時代には、伊予国最大の庄園「宇和庄」となり、橘氏その地頭職を補任されていましたが、鎌倉期に京都公家西園寺氏が領するようになります。このころ、源平合戦や平家落人伝説を伝える地区が多くありますが、中世後期にかけて各地に新たに郷村が成立してきます。また、近隣を含めてこの頃の開創を伝える寺院がいくつかあり、等妙寺もその一つです。山林の開発の進行とともに、山寺が各地で形成されたものとみられます。近年の研究では、町の南西から高知県にかけて広がる山岳地帯が「奈良山」と呼ばれる神仏の聖地とされ、山岳霊場として形成・発展してきた歴史が明らかとなりつつあります。等妙寺に伝わる旧本尊の如意輪観音(木造菩薩坐像・愛媛県指定)は、鎌倉前期の京都慶派仏師の作とされる優品で、この地が古く観音霊場として開かれていたことを示すものとして注目されています。

 中世後期、南北朝期には西園寺氏が土着し、一方、南に面する土佐では同じく京都公家の一条氏が土着します。西園寺氏を盟主として各地区を国人領主が治めますが、伊予と土佐の国境地帯にあってその紐帯は緩やかであったようで、山城がこぞって各地に形成されています。宗教関係では、鎌倉末期の創建である等妙寺を中核として、六奉行寺院(宇和歯長寺、三間妙光寺、柿原静蓮寺、沢松吉蔵寺、上川安楽寺、延野々広福寺)など、宇和庄を中心に天台律系の寺院の広がりが認められます。また、町の北東に位置する御在所山にあった竜天寺に端を発する竜澤寺(曹洞宗・西予市城川町)の関連寺院の広がりもありました。国指定重要文化財の薬師堂を有する善光寺は、本尊阿弥陀如来坐像が当地域屈指の古仏で、平安中期の作とされます。また、薬師堂本尊の薬師如来坐像は南北朝期の銘を有しており、このころ竜澤寺末として中興開山されたものと考えられます。神社関係もこのころの遷宮を伝えるものが多いといえます。

 戦国末期には、土佐一条氏に代わって長曾我部氏との戦場ともなります。その後、豊臣秀吉の四国平定により、各地の領主層は下城を命じられ、寺社に至っては等妙寺をはじめとして寺領・寺宝をすべて没収されるなど、大きな転換を迫られることになりました。江戸時代には、宇和島藩10万石に奥州仙台の伊達政宗の嫡男伊達秀宗が藩主として赴任。伊達家支配のもとに伊達文化が花開きました。伊達騒動の後、宇和島藩から吉田藩が分離し、やがて明治維新を迎えます。この間、吉田藩の紙の専売制に端を発する武左衛門一揆などがありました。
 明治21年、伊予国は今の愛媛県となり、平成17年に広見町と日吉村が合併し、鬼北町が誕生しました。