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文化財~善光寺(薬師堂・薬師堂厨子)~

印刷用ページを表示 掲載日:2012年1月1日更新

きほくを楽しむきほくの皆さんへきほく携帯サイト善光寺(薬師堂・薬師堂厨子)

善光寺(薬師堂)善光寺(薬師堂)

 善光寺薬師堂は医王山善光寺の境内仏堂です。この薬師堂は“室町期の禅宗様式の特徴を備えた建物で、しかも四国では最南端に位置する貴重な物件”として国の重要文化財に指定され、昭和57年(1982)6月30日国庫補助を受け復元修理工事を完了しました。
 薬師堂は東面した三間堂で屋根は方形造りです。堂内の中央に四天柱を立てた形式(四本の柱が二本に省略されている)は平安時代以来の一間四面堂の伝統を継承したものと考えられます。
 しかし、昭和28年(1953)大修理の際に草葺屋根が瓦葺に、板壁が塗壁に変ったほか、破損箇所が適宜取り替えられていた痕が見えていました。
 禅宗建築の様式は禅宗様又は唐様(カラヨウ)ともいい、鎌倉時代になって中国の南宋から禅宗と共に禅宗様の建築が輸入されたので、これと区別するため、在来の様式を和様(ワヨウ)と呼ぶようになりました。禅宗様は建長5年(1253)頃に完成したと考えられています。
 まず柱は円柱で礎石上に礎盤を据え、その上に立っていますが、柱の上下には丸みを持ってスボマツタ粽(チマキ)の部分があります。貫(ヌキ)を入れて柱間を固めていますが、これは長押(ナゲシ)を打って貫を用いない和様建築と根本的に違う構造法です。出入口には框(カマチ)を組んだ桟唐戸(サンガラド)を開き窓は曲線の花灯窓(カトウマド)とするなど賑やかな細部が見られるのが普通です。
 身舎(モヤ)は正規の組物を組んで軒を支えていますが、柱上にだけ組物を組む和様に対して詰組(ツメグミ)といって柱と柱の間にも同じ形式の組物を置き全体で軒を支える力を表しています。
 組物とは斗(マス)や肘木(ヒジキ)(キョウ)とを組上げて順次前方向に突出し持送りの役をなすものであって斗キョウ(トキョウ)とも呼ばれます。斗は立方体の材で下部を繰り込んで、ここで肘木の上に乗り上部は欠き込んで上の肘木を噛んでいます。
 斗は一番下の大きな大斗(タイト)と普通の大きさの巻斗(マキト)からなり、他に特殊形のものもあります。肘木は水平に通る腕木で下端が曲線になっています。斗キョウの形や曲線の状況は時代による差がはっきり現れる所であるから年代を判定する場合に最もよい史料となります。組物では壁より前方に出た斗の列の数を手先といいます。つまり、前方に三列出ていれば三手先です。普通三手先を正規の組み方としますが一列の場合は出組(デグミ)と呼びます。また二手先以上になると組物の中に大きな斜材を組み込んで垂れ下がるのを防ぎ、この斜材を尾ダルキ(オダルキ)といいます。構架では虹梁(コウリョウ)の間を太い束(大瓶束)(タイヘイヅカ)で支え構造法をそのまま見せる手法は豪快美を重んずる天竺(テンジク)様式(禅宗様に先立って中国から輸入された仏殿の建築様式)に通ずるものがあります。軒には扇ダルキ(オオギダルキ)といってタルキが放射状に並び、内部では中心部一間四方を最も高くして一枚板の天井とし、その周りは組物とタルキをそのまま見せています。但し、改修後の薬師堂のタルキ割(タルキワリ)は扇タルキではありません。

善光寺(薬師堂厨子)

 厨子は堂内にあって、一間厨子で入母屋造り板葺であり、組物は三手先詰組で二軒扇タルキです。保存条件がよいので扇タルキも桟唐戸も殆ど完全に残っています。
 この薬師堂と厨子の創建年代はいつ頃かという質問に対して、確答できるだけの史料がまだ発見されていません。一般には厨子内に安置する薬師如来の体内書「…小松村善光禅寺住持比丘(ビク)僧正快大壇越(ダンオチ)板上四郎左衛門有重…正平十三年(1358)…」の記録を根拠としていろいろ推測されていますが、よく調べてみるとこの銘文は修理銘であって実際はそれよりもっと古い時代に建立されたものであることがわかります。しかし当地にはこれ以上古い実証的史料が無いので「日本仏教史」的見地から考察するほかはありません。
 中世(鎌倉、室町時代)には天台宗、真言宗などの密教寺院がかなり地方にまで広がっていました。鬼北町では芝の等妙寺、御開山の竜天寺が開かれたのもこの頃のことです。
 天台・真言の密教は、数学的に非常に整ったものでしたが、それとは別にもっと素朴な形の宗教が早くから存在しました。特に地理的に不便な広見川の峡谷地帯では阿弥陀、薬師観音、地蔵などの如来、諸菩薩を信仰の対象として、極楽往生や現世利益(ゲンゼリヤク)を祈願する「お講」が盛んで上人(ショウニン)または聖行者(ヒジリギョウシャ)と呼ばれる人たちが開いた庵室や山寺がその道場となっていました。また中央、地方の有力寺院はあらゆる関係をたどり競争で末寺を設けましたが、この場合多くはこれらの山寺や庵室の類が中心となって寺院の体裁を整えてきたのです=その事例は鬼北町にも少なくないが省略する=しかし実際に寺院を新築するに当たってはやはり有力な外護者(ゲゴシャ)がいて大檀那(ダンナ)(出資者)となることが必要でした。この大檀那は主として当時の有力武士である御家人層でしたが川筋地方では新興武士クラスの開発領主の発願によるものが多かったのです。
 善光寺の場合でも草創期には薬師如来を本尊とする庵室があったと考えられます。医王山という山号も薬師如来に由来しますが、その年代についてはわかりません。しかし伝説によると“寿永4年(1185)壇の浦の合戦に北九州の豪族松浦氏は平氏に味方して敗れ、一族は離散したがその一部は逃れて小松村に潜み、やがて水晶の森(現在の城山公園付近)に砦を築きまた領内に薬師如来の木像を造立した”といいます。
 今かりにこの伝説を史実に近いものとすれば松浦氏が造立した如来像を百数十年後の正平13年(1358)に坂上四郎左衛門が修理したことになります。おそらく松浦氏と坂上氏は同族であると思われます。
 松浦(マツラ)党は「魏志倭人伝(ギシワジンデン)」に出ている「末廬(マツラ)国」、即ち現在の唐津市付近を根拠とした水軍の旗頭でした。それが壇の浦の海戦に壊滅的打撃を受けたことは既に述べましたが、「元冠」の頃から勢力を回復し室町時代には「私貿易」を営んだので、その海港「呼子(ヨブコ)の浜」は大陸文化輸入の中継港となりました。後年豊臣秀吉が文禄、慶長の役に朝鮮渡海の拠点として築いた名護屋城趾もこの近くにあります。
 伝説どおり水晶の森城主が松浦党の一族であったとすれば、北九州を経由した大陸文化が小松に流入したとしても不思議ではありません。
 広見禅定寺の仏殿も室町期の禅宗様で蟇股(カエルマタ)に顕著な特色が表れているが、あるいは善光寺の薬師堂と同一系統のものでしょう。
 延徳3年(1491)頃から約100年間にわたる戦国時代には、当地方も予土合戦の戦場となったため古文化財の大部分は焼失してしまいました。特に神社や寺院の被害が甚だしかったこともあって建築史の研究に手がかりが極めて少ないのです。
 従って、現時点では一部伝説を交えた仮説の域を出ませんが、将来新史料の発見とあいまって、中世史の全貌が明らかになる日を期待しています。(国指定重要文化財)

 善光寺(薬師堂・薬師堂厨子)360度ビュー360°ビュー

所在地

小松善光寺

指定年月日

昭和52年6月27日


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