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文化財~国史跡 等妙寺旧境内~

ページID:0002724 更新日:2021年6月7日更新 印刷ページ表示

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国史跡 等妙寺旧境内

 等妙寺 現在の等妙寺 

駐車場 史跡駐車場のモニュメント

 鬼北町大字芝に所在する奈良山等妙寺(天台宗)は、元応2年(1320)、理玉和尚(りぎょくかしょう)の開山と伝えられます。理玉は淡路出身で、天台宗総本山の比叡山で仏道を学びました。理玉和尚は、中央の文献で、静義上人、ぎ求上人という名前であったことがわかっています。

  平安後期から鎌倉時代にかけて比叡山では、僧兵を構えるなど、仏道修行を蔑ろにし、僧として遵守すべき仏の教えである戒律が守られない破戒の状態が一般化していました。こうした風潮のなかから、比叡山西塔の別所黒谷を拠点とする僧らを中心に、僧たる原点を見つめなおし、宗祖最澄が伝えた教えを復興しようという戒律復興の運動が興りました。彼らは自ら「天台律」を名乗り、「戒家」と称して、最澄の伝えた十二年籠山行を実践し、貴賤を問わず広く戒律を伝えるなど、布教や庶民救済活動を展開することで戒律の復興に努めました。

 この法門は伝信和尚興円のときに思想大系がまとめられ、後醍醐天皇の篤い帰依を得た弟子の慈威和尚恵鎮(円観)のとき、「国王の氏寺」ともいわれる京都東山の法勝寺の修造を通じて戒律道場とし、布教活動の拠点としました。さらに弟子らを各地に派遣し、寺院を創設して全国へと布教活動を展開しました。その弟子の一人が理玉であり、創設された寺院が等妙寺です。比叡山に匹敵する修行地を求めてこの地を選び、創られたものといえます。

 等妙寺の主な歴史は、「等妙寺縁起」や「宇和旧記」、末寺であった歯長寺(西予市宇和)に伝わる「歯長寺縁起」などからうかがい知ることができます。当時の宇和郡は、「宇和庄」という伊予国最大の庄園で、西園寺氏が領していました。寺院の造営には、西園寺家被官で庶務代官であった開田善覚や西園寺家の庇護があったといいます。元徳2年(1330)には十二坊まで造営し、密教道場としての威容が整い、以後、理玉から旭栄まで25世260年にわたって寺運はますます栄えたといいます。ところが、豊臣秀吉の四国征伐の後、天正15年(1587)戸田勝隆の宇和郡入りの際、寺領や寺宝をすべて没収され、加えて天正16年(1588)に火災により、伽藍も焼失。隆盛を極めたさしもの名刹も一度に荒廃したといいます。しかし、火災から2年後、麓の霊光庵跡地にて再興され、江戸時代には宇和島藩伊達氏の庇護を得て存続し、今の等妙寺へとつながっています。

 等妙寺旧境内は、町の南西に位置する鬼ヶ城連山のうち、郭公岳(標高1,010m)の中腹から麓にかけての範囲に寺院の中心となる伽藍が築かれています。天正の火災以後は、藩の御立山(御用木林)として管理され、明治期には国有林、昭和には町有林となりました。聖地として認識されていたため開発等が入ることなく、広大な伽藍が中世の姿そのままで遺されています。特に各所で駆使し築かれた石積みは注目され、当時の土木技術水準の高さをうかがい知ることができます。また、寺院の中枢である本堂跡や本坊跡が確認された平坦部A(如意顕院跡)の調査から、石積みを駆使した平場造成が14世紀前半の開山期にさかのぼること、15世紀前半から後半にかけて大規模な改変がなされていること、また、庭園地区では、岩崖、滝、池が確認され、その直上に位置する平坦部A-2(観音堂跡)とともに、観音の霊場補陀落山の信仰のもとに造られた庭園で、その形成が開山期以前、つまり等妙寺の前史にあたる寺の発祥地であることがわかってきました。

 等妙寺がなぜこの地に造られたのか。それは背後に聳える山岳「奈良山」に対する信仰が原点にあると考えられます。等妙寺本尊の木像菩薩遊戯坐像(伝如意輪観音)は鎌倉前期の作で、奈良山は鎌倉時代にはすでに観音霊場として開かれ、のちに理玉らが修行地を求めて天台の戒律復興・修行の拠点として等妙寺を創設したという歴史の脈絡が見えてきています。

福寿院 福寿院跡  石積み 本坊石積み

 

竜紋壷 褐釉龍紋壷  採取された仏具 採取された仏具

 

所在地

中野川・芝地内