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文化財~旧等妙寺跡~

印刷用ページを表示 掲載日:2012年1月1日更新

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旧等妙寺跡

 旧等妙寺跡旧等妙寺跡

 旧等妙寺跡は、鬼北町南側、鬼ヶ城連山の郭公岳中腹にあります。この遺跡は、郭公岳北側の緩やかな地形を巧みに利用して、天台宗山岳寺院としての伽藍配置がなされています。確認された曲輪と称される削平地は20カ所余りあり、その中には本堂跡、カネツキ堂、僧坊跡や墓の畦と言われる2段からなる中世の集石墓があります。
 「宇和旧記」によると、開基は元応2年(1320)で、開山は淡路島出身の理玉和尚となっています。宗派は天台宗、本尊は如意輪観音で、西園寺宣房の庇護を得て10年後には12坊まで造営し、後醍醐天皇から勅願寺と定められ、関東の宝戒寺・加賀の薬師寺・肥後の鎮興寺とともに天下四個寺(四戒場)の一つとなり、京都の名刹、法勝寺の法系下に置かれることとなりました。以後、理玉から旭栄まで25世260年にわたって寺運はますます栄えたそうです。ところが、豊臣秀吉の四国征伐の後、天正15年(1587)、戸田勝隆の宇和郡入りによって寺領や寺宝を没収され、加えて翌天正16年(1588)の天火により、伽藍も焼失、隆盛を極めたさしもの名刹も一度に荒廃したと書かれています。 現在までの調査では、各遺構に点在する石積や礎石・柱穴等が数多く検出されています。出土遺物では、青磁・白磁・青花・天目茶碗など当時中国から運ばれた陶磁器や龍の模様を貼り付けた全国的にも珍しい褐釉龍文壺が出土しています。国産のものでは、備前焼の瓶・擂り鉢・天目茶碗・火鉢・香炉・宋銭・和釘等が出土しています。
 また、このような中世の山岳寺院が、なぜこの広見の地に建てられたのかは、まだわかっていません。

所在地

中野川


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