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文化財~龍渕寺~

ページID:0002740 更新日:2012年1月1日更新 印刷ページ表示

上川龍渕寺

木造虎関師錬倚像きほくを楽しむきほくの皆さんへきほく携帯サイト

  像高66.6cm、檜木材寄木造りで椅子に腰掛けた姿勢、体内書によって明応2年(1493)建憧和尚が造顕し、その後、寛文12年(1672)と享保20年(1735)の2回にわたって修理されたことがわかります。寛文の修理には運慶の末流を名乗る仏師が技術を担当し、享保の修理に椅子、沓、柱杖を新添したらしいのですが、これら付属品の類は現存していません。両手の部分が欠損し、頭部が二つに割れていましたが、現在は修理がなされ、中央公民館ロビーに安置されています。
 龍渕寺の伝法(建法)開山「虎関師錬禅師」(1278~1346)は、鎌倉時代末期の臨済宗の学僧で生前、後村上天皇より本覚国師号(65歳=1342)を賜りました。京都の生まれで父は藤原氏左衛門尉という下級貴族でした。正和2年(1313)京都の歓喜光寺に在って、日本の高僧等仏教関係者の伝記「元亨釈書」(全30巻)を著しました。その後、円通寺、三聖寺、安国寺、東福寺、南禅寺等の諸大寺に歴住し、この間、後宇多天皇、亀山上皇、後伏見上皇、後醍醐天皇、光厳天皇(元亨釈書を献上)等の御親任あつく、また足利尊氏や足利直義らとの親交もありました。 
 虎関師錬禅師の古像は全国的に少なく、現在発見されているもののうち、木造は東福寺海蔵院と南禅寺開山塔天授庵及び三重県四日市生桑毘沙門堂と、ここ龍渕寺の4体です。画幅については、海蔵院(康永2年=1343自賛のもの)や東福寺霊源院、茂松寺等のほか、近在では東宇和郡宇和町常定寺(作成年代判読不能)のものなど数点があります。
 常定寺開山回塘重淵和尚は虎関師錬禅師の直弟子で、常定寺の虎関師錬画像には禅師の自賛があり、宇和旧記には、延宝年間にそれを東福寺に持ってくるし、東福寺より出費して修復した旨の書付がある、と記されています。虎関師錬禅師と龍渕寺との関係もこの辺から伺われます。虎関師錬禅師椅像は全国的にも数少なく、貴重なものといえます。
※ 伝法(建法)開山とは、観音講や地蔵講などのお講によって始まった庵寺が、正規の寺院に昇格したとき、初代の住持となった和尚のこと。開山には所属宗派の法系で、知名の高僧を招講するのが例となっている。開山がその寺に永住することは少なく、龍渕寺の場合も、初代は弟子の承活和尚であるといわれる。 (町指定有形文化財)

 所在地:上川
指定年月日:昭和52年10月28日

木造釈迦如来坐像

鬼北町上川、龍渕寺に安置されている「木造釈迦如来坐像」は、胎内の墨書に『大師前住東福虎関禅師大和尚、奉為第七廻造之、結縁々末□□願主比丘承活六十一(判)観應三壬辰自二月二十九日始。終七月廿二功筆。通一(判)。佛子法橋玄定、良春(判)柤那藤原長寿丸生年十二』とあります。すなわち、この釈迦如来坐像は、京都東福寺の前住虎関師錬七回忌供養のため観応3年(1352)に仏弟子の承活和尚が造立したものです。その費用を寄進した藤原長寿丸は、おそらく領主の嫡子とみられます。本像は京仏師の制作で、その後、寛文12年(1672)と享保20年(1727)の2回修理が行われましたが、享保の修理に雲光背が新添されました。7体の化仏(ケブツ)を配したこの光背は町内唯一の逸品というべきでしょう。本像は、桧材の寄木造りで像高60cm、雲光背116cm、台座38.2cmです。

本像の特長

(1)頭部
 螺髪が小さく肉髯も低くて頭上がやや軽やかです。肉髯珠と白ゴウとの珠白の輝きの対比が美しい。左目は鼠害のために損失。目は伏目に保ち、面相はおだやかでよく整っているが、頭部が完全に体躯から断たれている。
(2)胴体部
 右肩が左肩よりやや上がっているが、普通肩で左右のゆるやかな曲線は美しく、ゆったりとした落ち着きのある体躯。納衣は通肩、両手は欠損。
(3)脚部
 結跏趺坐した膝が前に大きくつき出る。衣文の彫りは深くない。木造全体が金泥仕上げ。
(4)光背
 先が極度にとがった舟形光背。右肩の一部が欠損、雲形をデザイン化し7体の化仏を備えた光背で、身光はあるが頭光は作られていない。 
(5)台座
 蓮華座で、六角形の框にも雲形彫刻をあしらっており、光背の意匠とよく調和を保つ。蓮華部は大形の一重蓮弁で、全体を金泥仕上げとしている。 (町指定有形文化財)

所在地:上川
指定年月日:昭和52年10月28日